第74話   殿様の釣 Z   平成16年01月11日  

昔の鶴岡の町には、釣具屋(釣具)とえびや(餌屋)の二つがあった。餌屋と釣具の二つが分離しているのは他所の地方にはないと思われる。

如何に鶴岡は釣が盛んな土地であったかと思わざるを得ないと思っている。鶴岡という土地柄は計算上一世帯に必ず一名以上の釣り人を数えられる土地であるから、当時旧市内3500世帯として3500人以上の釣り人が居た事になる。秋になると家族ぐるみでまた町内や職場内の釣大会、取引のお得意様を集めた釣大会などが盛んに行われた。釣り人は毎年の色々な釣大会に備えて一生懸命に釣の技を磨いたのである。狭い土地にも拘らずだから釣具屋とえびやの二つが共存できたのである。酒田も鶴岡と同様に釣が盛んであったが、釣具屋で道具と餌の両方を商っていた。ただ異なるのは撒き餌の習慣がないことである。

かなり昔の話であるが、庄内から新潟へ転勤した釣好きの従兄弟が吃驚したことは冬になると釣具屋を閉めてしまうので、その理由を聞くと冬は商売にならないので食う為にはしょうがないと大半の店が閉めて出稼ぎに行くことであったと云う。そのころ庄内の釣具店は出稼ぎなんて一軒もなかったのを覚えている。

昭和50年代迄の鶴岡では釣具屋とえびや(餌屋)の二つが共存していた。一緒になってしまったのは、昭和60年代の後半に釣えびの減少と更に沼にブラックバスの放流した輩が居てえびが一時壊滅状態になった事である。その上昭和40年代の後半からいつでも手に入り、更に価格の安い冷凍のオキアミ類の餌が庄内に普及した事であった。50年代では庄内竿で釣る人たちの大半は生えびを使い続けたが、60年代以降生えびの価格が高騰し、安くつくオキアミを使うようになってきている。

その為、最近は生えびが手に入らなくなってえびやの大半は店じまいか釣具屋へと変身した。しかし、えびやが少なくなったと云うもののその面影はいまだに残っている。例えば○○えびやと云う釣具と餌屋がひとつになっている釣具店があるし、いまだに何軒かは餌屋だけで食っているも店もあるようだ。鶴岡の風物詩としてぜひ残っていて欲しいものだ。